この間,紙の本を売ってから,寝る前の読書は,もっぱらKindleをつかっている。最近は,歴史に関する本を読んでいる。学校の教科でいうところの「社会」の本だ。とある本を読み終えたあと,Kindleのレコメンド機能で薦められたのが,貝原益軒の『養生訓』だった。
『養生訓』を書いた貝原益軒は,江戸時代の儒学者。平均寿命が50歳そこそこだった時代に,84歳の大往生を遂げている。驚くべきは,往生する1年前まで「生涯現役」だったことだ。細い字の読み書きもできたし,この『養生訓』も高齢でまとめたようだ。
『養生訓』には,長寿である彼自身が認めたことばの端々から,現代にも通ずる「養生」の秘訣が垣間見える。この記事では,自分への「戒め」もかねて,養生の「エッセンス」をまとめている。
「元気」とはもともと備わっている「気」のこと
「養生訓」における重要な考え方の1つが,
「元気」とは,元々,身体にそなわっている「気」であり,父母と大地からの授かり物である
というものだ。
現代には,「病は気から」ということばが残っている。ただし,この言葉は,「じぶんは風邪をひかない」とか「病気にならない」という「気合」や「気持ち」をもてば病気にならない,あるいは逆に「風邪や感染症が流行しているから,自分が感染しないか不安だ」という「弱気な気持ち」でいると病気になる,というふうに解釈されているようだ。
しかし,『養生訓』の定義に照らすと,現代の「病は気から」の意味は,曲解されているように思える。同様に,現代社会でよく用いられる「元気を出せ」や「元気がない」も,上述の「元気」とはニュアンスがちがう。なぜなら,上述の考えに基づくと,もともと備わっている以上の「気」は出せないし,逆に,「気」が完全にゼロになることはない(それは天寿を全うした時のみ)と考えられるからだ。
以上のことから彼は,『養生訓』において,もともとある「気」,すなわち「元気」を減らさず,おだやかに生きてゆく方法と重要性を,滔々と説いている。
現代にも通ずる「元気」を養う3つのコツ
『養生訓』ではさまざまな「気」を養う方法が紹介されている。そのなかでも,これから紹介する3つは,現代にもじゅうぶんに通用する「養生」のコツだ。具体的には,「内邪」をふせぐこと,「外邪」をふせぐことと,そして,三大欲求をコントロールすることだ。順番に説明していこう。
「内邪」をふせぐ
まず「内邪」は,身体の内側から湧いてくる感情のことだ。
感情として,よく言われるのは4つの感情:喜怒哀楽だが,「養生訓」では,そのほかに苦・憂・驚の3つを加えた7つの「邪」を「内邪」としていた。
私のような内省型の人間は,感情の起伏は割合少ない。したがって,喜怒哀楽を表に出すことは少ない。一方で,苦・憂に関しては,つい考えすぎたり心配しすぎたり,ということで,まわりからみればそれほどでもないことについて,苦しんだり,憂えたりすることがままある。
こうした内側の感情の起伏(心の乱れ)が,気を減らすといっている。それゆえ,できるかぎり感情の起伏をすくなくすることが,気を養う(養生する)ことにつながる,というわけだ。
「外邪」をもふせぐ
つぎに「外邪」は,暑・風・寒・湿の4つであると述べている。これに長くあたりすぎるのは良くないし,我慢しすぎると害である,すなわち気を減らしてしまうといっている。
暑い寒いは,今の時代であれば,冷暖房を我慢しないこと,気候に合った服装であれば,十分に防げる。
一方で,「風」「湿」は,現代であっても,うっかりするとついついあたりすぎてしまうことが多いのではないだろうか。たとえば「風」は,寝るときにエアコンや扇風機の「風」にあたりすぎることはよくないというし,寒風に長時間さらされれば,のどを痛めることがある。
「湿」は,日本特有の「邪」だと思う。これは直感的にはわかりづらいが,梅雨の時期に起こりやすい害を想像すればいいのだろう。たとえば,カビや,食中毒などがあたるだろうか。あるいは,身体への湿気を考えると,水の飲み過ぎや長風呂なんかもこれにあたるのだろう。
いずれにせよ,自分にとって快適な環境をつくることが重要だといっている。そして,我慢するな,とも。そうすれば,外的な環境から余計な「気」を減らさないでいいのだ。
三大欲求をコントロールする
このようにして「内邪」と「外邪」を遠ざければ,「気」をへらさずにすむ。余計な「気」がへらないと,精神的に穏やかになる。そうすればおのずと,人間の三大欲求である「食欲」「性欲」「睡眠欲」にも打ち克てるようになる,という考えだろう。ただし,三大欲求そのものも,意識をもって制御することも重要だ。
特に「食欲」を制御することの重要性について,「気」のとどこおりを防ぐために,繰り返し述べられているる。
曰く,天寿を短くする(授かりものの寿命をへらす)原因の多くは,「必要より多く食べ過ぎた」あるいは「飲み過ぎた」ことにあるといっている。これは,食べすぎや飲み過ぎが,脾胃(当時は,脾臓と胃とが,消化をつかさどると考えていたらしい)のはたらきを悪くしてしまい,これによって「気」が体の中に滞ってしまうからだ。消化され切らなかった食べ物や飲み物が,内蔵に滞留してしまうイメージだろうか。
ただし,まったく食べない・少ししか食べないのもよくない。適度に食べる・飲むからこそ,栄養がよく巡る,すなわち「気」がよく巡り,「気」が増えるのだ。
また,現代社会では,その健康への良否が盛んに議論されている「飲酒」についても,「適量であれば気がめぐるからよい」として肯定しているように読めた。ただしこれはあくまでも「気」がめぐるかどうか,という文脈での肯定であって,医学的・科学的に「体にいい」といっているのではないことに注意。
「睡眠欲」に関しても,やや強めに戒めている。午後から惰眠をむさぼることや,眠くないのに横になることを慎みなさい,そして,よく働きなさいと勧めている。要するに,適度に運動すれば腹も減るしよく眠れる。これによって「気」がふえることにもつながるのだ。
「中庸」こそが長生きの秘訣
貝原益軒は,医療に関して,もはや「医療マニア」と呼んでもおかしくないほど博学であった。
ただ,「養生訓」を書けたのは,それだけが理由ではない。彼はおそらく,自分の身体と身の回りの人間をよく観察していたと思う。それも,ただ単に観察するだけでなく,「どうすれば自分の天寿を全うできるか」「そのためにはどのようにして自身の身体をいたわるべきか」ということを真剣に考え,かつ,それを実行していた。
うわべだけの知恵や知識だけでなくて,実行をともなって,それに「長寿」という実績がついているからこそ,説得力があるのだと思った。
現代社会の人間が,忙しさやあふれんばかりの娯楽にかまけて,「自分」を失っていることとは対照的だ。
現代では,0か1かのディジタル的(文系的?)な考え方が横行している。現代人は,アナログであるはずの身体を,そのディジタル的な考え方へと,むりに合わせているように観察される。
でも,そんなふうにして,自然の一部たる身体を合わせていっても,絶対何処かでズレてくるはずだ。大部分のふつうの人間は,そうではなくて,「中庸」を中心として,その時々にあわせて調整していくほうが,身体がしっくりくるのではないだろうか。
自分を失っている,どこか調子がわるい,それはきっと何かのやりすぎか,やらなさすぎか,その両極端にいるからだろう。この本を読んで,「なにごとも適度がいちばん」なのだ,と戒めよう。
(おわり)
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