紙の本を100冊以上買取に出した
下宿にある本(紙の本)を買取に出した。今後また折にふれて読み返したい本や,最近購入して消化しきっていない本をのぞいては,すべて買い取りに出した。
買取に出した本は,全部で130冊だった。段ボールにして3箱分。これは,本棚8段分のうち,6段分に相当する。つまり,買取に出したことで,手元にある紙の本は25%以下に減少した。
売りに出した本を全部で10とすると,文庫:新書:ハードカバー・実用書=4:4:2くらいの割合だったと思う。あるいは,もう少し文庫・新書が多かったかもしれない。
買取先のサイトで査定に必要な情報を入力して,集荷を申し込んだ。一度に3箱以内まで買取可能。段ボールは自分で用意しなければならないが,集荷に来てくれるから,今回のように買取冊数が多いときは便利。
集荷されてから数日のうちに到着したとメールが来た。メールによると,3~5日くらいで査定が完了する見込みとのこと。しかし実際には,その翌日には,査定完了したとメールが来た。130冊の本を1日で査定し,査定額まで算定し終えたということ。
査定結果を確認すると,約130冊のうち,約100冊に値段がついて,買取額合計は7,100円ほどにもなった。1冊あたり71円という計算になる。
30冊ほど値段がついていないが,これらには,書き込み・付箋・折り込みをつけていたものと,古本屋で買ったものとが含まれると推測される。査定明細は発行されないサービスだったから,どの本がどれくらいで査定されたかは不明。
買取額は購入額の5%くらいだったが
さて,この買取額面7,100円が高いか安いかだが,少し見積もってみると,購入額のどれくらいに相当するかがわかる。
たとえば,文庫・新書は1冊1000円くらい,実用書・ハードカバーの本は2000円くらいだと仮定する。これらの単価に,買取冊数を掛ける。つまり,文庫・新書:1000(円)x130x(4/10+4/10)(冊)+実用書・ハードカバー:2000(円)x130x(2/10)(冊)。これより,今回買い取りに出した本の購入総額は,156,000円だと見積もられる。
したがって,買取額7,100円は,買った本の総額の4.6%と概算できる。このことから「紙の本は読み終わったあと定価の5%弱で買い取ってもらえそう」と言えそうだ。
これが高いか安いか,比較対象として電子書籍が考えられる。
電子書籍は,ディジタルコンテンツとして「配信」されるので,デバイス上から削除することはできるものの,コピープロテクトされているので転売できないし,紙の本のように買取に出すこともできない。したがって電子書籍は買ったらそれで終わりだ。
ただ,Kindleをはじめとした電子書籍で本を買うと,紙の本とくらべて安く買えることがほとんだ。私が読むジャンルだと,感覚として5~10%安い。時期やジャンルによって,割引率は1~50%と幅広いはずなので,一概に「何パーセント安い」とは言い切れない。
とはいえ,電子書籍が紙の本より安く売られていることはまちがいない。それに,Kindleの場合,Amazonのセール時には,たいてい10%をこえる割引率が適用されている。
したがって,多くのジャンルの本では,電子書籍の割引率が,上記で概算した紙の本の「買取額/購入額」の割合を上回っているだろう。
このことから,電子書籍は「読んだ後に売れない」とはいえ,その割引率は,紙の本を「読んだ後に売りに出す」ことで得られる売却益を上回ることが多いと評価できる。
したがって,単に「物質的」な観点からみれば,ディジタルコンテンツを買う方が物理的なコンテンツを買うよりも「おトク」だとみなせる。
数百冊の本を乱読して売却益以外に得たもの
しかし,上記のようなことは,とても現金な考えというか,みすぼらしいというか,ナンセンスな考え方でもある。
そもそも本は,じぶんがなんらかの娯楽や知識をもとめて買っているのであり,読むことによっていくらかでも新しい考えや楽しみを得られるのであれば,その時点で「元はとれている」はずだ。
いいかえれば,一般的に流通する本は「消費」するものであって,資産ではない。もちろん,分野やジャンルによっては,本そのものが「資料」や「資産」として扱われることもある(文系の研究では,この傾向がつよいだろう。理科系の研究でも,その分野の「古典的」な教科書や,絶版となり流通しなくなった洋書などに,この傾向が見られないこともない)。
では,これだけ活字を消費して得られたものは,売却益(購入価格の約5%)というお金以外に何かあっただろうか。
今回,買い取ってもらった本のうち,娯楽を目的とした小説以外の本の多くは,大学学部時代~大学院の間に買ったもので,そのほとんどが書店にて,定価(あるいは大学生協書籍の組合員価格)で購入した。
つまり,身銭を切って,著者に対して正しく対価を支払った。そして,購入した本の95%以上は完読した。また,Kindleや図書館,書店で立ち読みした本も含めると,大学入学後に数百冊の本を読んできた。
しかし,完読した本に関して,すべて内容を理解できているかは自信がない。というか,その多くは,ただ消費しただけ,読んだだけで終わっていると自己評価している。
だいたい内容を理解して,かつ,自身の「血肉」となっているのは,いま本棚にのこっている本の半分くらい(つまり,10数冊程度)と考えている。したがって,生き方に影響を与えるような「深い」読書は,数%未満の本でしか経験しなかったということ。
じゃあ,消費した本(あるいは,そもそも内容を読み切れなかった本)には,まったく意味がなかったといえば,決してそうではない。むしろ,そういった本を読んできたことが重要な意味をもっていたと考えられる。
なぜなら,こういった本によって,世の中でどんな考えを持っている人がいるかとか,ある考えや知識に対して,今読んでいる本に書いてあることがどれくらい遠いか・近いか,その程度は如何ほどか,を知ることができたからだ。
つまり,たくさん読書したことで,人間の考えることの幅や座標軸のようなものを,おぼろげながら把握できた。このことが,活字を消費した時間とお金を引き換えにして手に入ったもののなかで,もっとも貴重で価値あるものだと考えている。
換言すれば,「深い」読書経験を与えた数%未満の本は,その広い座標空間において,自分がむいている(あるいはむこうとしている)ベクトルに,まさしくぴったりくる(もしくは,その方向へとみちびいてくれる)内容を提示していた。
世の中には,じぶんと同じ感覚・意見・考え方・性格の人間が,これくらいの割合で存在する(逆に言えば,それくらいしかいない)ということを示唆している。
この視点にたどり着くのに,だいたい10年弱かかった。長いといえば長いが,人生100年時代と考えれば,そのうちの10%にすぎない。この10%に対して,10万円そこそこのお金と毎日1時間くらいの時間をつかうだけで,ここまでたどりつけるのであれば,読書は非常に有益ではないだろうか。
必ずしも「全部読む」必要はない
座標軸をつかむにいたった数百冊の読書では,かならずしも内容を理解しているとは限らないとかいた。にもかかわらず,思考やものごとの広がり,そして,それらの位置づけ(座標軸)をある程度つかむことができた。
このことが意味しているのは,究極的には,「本はかならずしもきっちり読まなくてもいい」ということだ。座標軸をつかむだけ,相対性を知ることを目的とするのであれば,どの本が,どういう立ち位置にあるかを知ることがとても重要だということ。
このことは,じぶんのなかに「内なる図書館」のような世界を構築していく作業にあたる。本屋や図書館で,居並ぶ本のわずかな部分を立ち読みしたり,背表紙を眺めたりするだけでも,「勉強になった」とか「アタマをつかった」と感じるのは,この座標軸や相対性が,そこで消費した時間によって少なからず見えてくるからではないだろうか。
最近は,インターネットの世界に入り浸り,巨大IT企業が発明したアルゴリズムによって,自分にあったもの・ことしか目に入らなくなっている。SNSにいると,「フィルタバブル」と呼ばれる,同質の考えや意見をもったひとがあつまる空間に,自然と取り入れられてしまう。
こうした状況では,上記のような座標軸や相対性をみにつけることはむずかしい。このことは,「じぶんの考えがない」ひとを大量生産しているように観察される。
みんなと同じようにやっていれば,まあ少なくとも大きな失敗はしないだろうが,ほんとうにそれでいいだろうか。美容院で髪を切ってもらうときに,「おまかせします」とか「特にこだわりはないですけど」というくらいならまだいい。
それより,自分の考えを相対的に位置づけられていないために,自分の人生において重要とおもわれる岐路に直面したときにも,まわりの意見やネットの情報を鵜呑みにして行動をしてしまっていないだろうか。
「愚者は経験に学び,賢者は歴史に学ぶ」とは,ドイツの鉄血宰相ビスマルクの格言だ。愚者は愚者なりに読書という経験をすることで,じょじょに賢者へと近づいていくのだ。
(おわり)
関連記事:
最後の方に紹介した「内なる図書館」や「本は読まなくてもいい」という考え方は,ピエール・バイヤール著:「読んでいない本について堂々と語る方法」(ちくま学芸文庫)に詳しい。この本については,以前,以下の記事で紹介した。
「フィルタバブル」については,以下の記事でもうすこしくわしく紹介している。
SNSの次?メタバースとは何か ネット上の「もう一つの世界」(岡嶋裕史)の読書記録