研究で身についた考える癖のよしあし

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学部4年生で研究をはじめてから,4年と数ヶ月が経った。

この間,私の行動習慣を支配する,ある1つの「クセ」がついてしまったようだ。

それが,「やるまえに,あたまのなかで考える」ことだ。

実験をやって,あるデータが得られたとする。横軸をA,縦軸をBにとって,そこにプロットした結果を眺める。

それで,「どうして,Bがここまでへると,Aが急速にふえていくのだろうか」と考える。

対象は,実験データである。だから,これを「考察」するには,頭のなかで,実験を再現する必要がある。つまり,スローモーションのように,現象をコマ送りするのだ。それで,どういう要因(パラメータ)の寄与が,どれくらい大きいかを考える。

このとき,かならずしも要因は1つではない。また,それらのうちいくつかは,(いまのところは)実験で明らかにできないこともある。実験で確かめられるものは,パラメータをかえて実験をくりかえす。実験できないものは,数値計算によって現象を明らかにしていく。

実験や計算で,考えた通りの結果が出たら,そのパラメータの寄与が想定通りであったことを示す。これで,実験結果→考察という流れがうまれ,学会発表や論文の種となる。

また,想定外の結果が得られた,あるいはある条件ではうまくいくけど,閾値をこえてくると全然ちがう結果になる,という場合もある。これはこれで面白い。というか,こういう意外性のある結果のほうが,じつは学会・論文でウケがよかったりする。

なにはともあれ,学部4年生の卒業研究,そして,修士研究をつうじて,私にはこういう「考察」のクセが身についてしまった。どちらでも,実験の研究をやっていたから,結果が出たら,それについてどこまでも考えていく,そういう生活を送ってきている。

研究に対しては,「考える」ことがプラスに働いた。結果的に,それが自身を博士課程に導いたわけなのだが,,かならずしもいいことばかりではない。

人間の脳みそは,ほかの動物とくらべてずいぶん発達している。だから,なんでも,やるまえに「予想」できる。どれくらい「予想」できるかは,そのひとの性格や環境によって変わるが,私の場合,ずいぶんと内省的なようで,,あたまのなかで相当イメージを膨らませてしまうし,だいたいそれが当たってしまう。要は頭でっかちになるわけで,「ああすれば,こうなるだろう」の思考に陥りがちになる。

ただ,研究では,あたまで考えているだけではだめで,それをなんらかの方法で「実証」しなければならない。そうして結果が得られたら,こんどは論文にまとめる段階になる。ほかの研究者が「追試」できるよう,一連の成果を文字化しなければならない。

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だから,研究では,どれだけ「考えて」も,実験や計算でフィードバックされるし,論文をまとめる段階で,いやでも文字化される。逆に,実験や計算で再現できないことは,なんの成果にもならない。成果をふやすには,考えていることをどれだけ実行に移せるか,その実行力・知識の両方が求められるわけだ。

最近では,研究以外の余暇までもが,「考えること」先行になってしまっている。

やるまえからイメージすることは,べつに悪いことではないのだが,考えつくしてしまって,頭のなかでだいたいの結論をえがいてしまう。完成図ができあがってしまう。「まあ,こうなるだろうな」,とか,「これは,ちょっとうまくいかないだろうな」とか,「失敗したらいやだな」等。

完成図ができあがるまでは,まだいい。問題は,実証や論文化,すなわち,アウトプットを求められないことだ。これが,研究とはちがうところだ。

それゆえ,考えが堂々めぐりしてしまうこともよくある。だいたい,考え事というのは,考えるだけでは,とても答えがでないような,むずかしい問題にあたっていくときに生じる。まだ,研究であれば,相手が「自然科学」なので,「物理法則にかなう方向」へと考えをすすめてゆける。しかしながら,余暇とか人生とか,そういう大きくて漠然とした対象には,そういった方向付けをすることがむずかしい。どうしても,「人間」が基準となっていて,問題と答えが一対一に対応していない。因子が多すぎるのだ。

そうはいっても,まあ,「考えたこと」を考えたままにしておいても,だれにも何も文句をいわれない。考えるだけならタダだし,省エネだ。財布にもやさしい。

でも,それで本当にいいのだろうか?

インターネットには,「考えたこと」に対して「だいたいの答え」がある。ここで「だいたいの」と書いたのが重要で,ネットにあるのはあくまでも近似解であって,じぶんにとっての真値ではない。なぜなら,それは他人が,他人の条件(環境や性格)下において,試行した実験や数値計算の結果のようなもので,じぶんの条件でかならずしも同じ結果が得られるとは限らない。面白いかもしれないし,じつはぜんぜんつまらないかもしれない。

YouTubeを見ていれば,退屈な余暇はすぐに過ぎ去ってゆく。そのときは楽しいし,考え事もしなくてすむ。でも,その時間をおえたとき,なにものこらない。すすんでいないのだ。それは,考えることを放棄している,あるいは,考えたことを実行していないからにすぎない。

考えただけで実行しない習慣の先に待っているものはなにか?それは,「仕事」を中心としてまわる単調な生活と,暇つぶしのための「消費」だけだろう。

まだ若い今は,そうやってうじうじ考える時期でもあることは十分自覚している。ただ,将来的には,なにか1つ方向性を定めて,そのレールに乗っていくほうが,結果的には創造的な人生を送れるような気がしている。

余暇に動けなくなる足枷には,もちろん,「考えてしまう」悪癖のほかにもいろいろ要因は考えられる。情報量が多いとか,資金が足りないとか,。でもそれは副次的なものに過ぎなくて,まずは自分が何が好きか,心の底から没頭できるものはなにかを見つけることがいちばん先にあるべき。それを見いだすには,結局,動いてみて,「どれくらい楽しいか」というフィードバックを得るしかない。要するに,「準備を整えたら,まずやってみる」のだ。

工学(エンジニア)の世界では,「エイヤ」という用語がある。

まったくもって根拠がないわけでないけれど,経験やこれまでの結果から,「だいたいこれくらいだろう」というところに「決め打ち」することを指す。緻密な分析や検討から導き出すのではなく,半ば直感的に決断してしまうこと。

たとえば,研究報告を受けて,(とくにご年配の)先生方からアドバイス・ご質問を頂戴する際,「エイヤで決めてやってしまったらいいんじゃない?」とか,「ここのパラメータは,なにか根拠があって決めたわけではなくて,エイヤで決めてやったの?」とか,そういう具合につかわれる。

工学の研究にて,特にデータがそろわない分野では,この「エイヤ」がけっこう重要だったりする。まずもって,あたりをつけることが必要で,そのためにはとにかくデータをそろえなければはじまらないからだ。これは,「条件出し」とも呼ばれる段階で,このステップを経て,だんだんパラメータが決まってくる。

ある程度研究の経験を積んでいくと,この「エイヤ」の初期値に対する結果の精度が高まってくる。結果が「予想通り」の範疇に収まりやすくなる。

いっぽう,まだ経験の浅い学生は,この「エイヤ」がむずかしい。工学的センスがない限りは,当てずっぽうに近い「エイヤ」になる。そうすると,見いだしたい結果とは,到底かけ離れたパラメータからスタートしてしまうことになる。

最近は,数値シミュレーションが急速に普及している。だから,「エイヤ」より,シミュレーションで試行回数をふやすことで,パラメータの最適化を達成するようになってきていると観察される。いっぽう,昔々は,まだシミュレーションに要する計算機が高価だっただろう。

したがって,とにもかくにも実験しないと始まらないから,まずは「エイヤ」で決めてやってしまう。そういう状況だったから,(たとえば私の指導教官くらいの)年配の世代は,「エイヤ」を,結構重要視しているように観察されるし,また,そのセンス(目算の正確さ)をじゅうぶんに有している。

私もそうなのだが,私の指導教官も,実験研究から研究人生をスタートされている。

「実験屋」として,「エイヤ」のセンスを身につけていきたいし,その「思い切り」を,日常生活にも適用していきたいものだ。ある程度の準備が整ったら,経験と直感を信じて,「エイヤ」で動いてみる。そうすれば,なにかしらの結果が得られる。そして,目標との距離・方向性をつかめる。パラメータや方法を調整すれば,さらに目標へと近づいていけるだろう。こうなればしめたもので,要するに,最初の「エイヤ」が突拍子もないものでない限り,はじめてしまえばなんとかなるものだ。

もし仮に,突拍子もないものだったとしても,それは「とんでもない失敗」という結果でフィードバックされるから,いずれは,「望ましいオーダ」に収束していくだろう。

ここから導き出される重要な観点は,「とにかく早くやってしまう・はじめてしまう」ことだ。

一通り考えて一応の方向性と結論が出たなら,あとは準備。そして迷ってないで,最初のデータを取りに行く。工学の実験でも,「遊び」でも重要なことだ。

(おわり)

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